飫肥城下町

飫肥城

飫肥城は古くは「飫肥院」の跡とも云われているが、何時頃創建されたかは明らかでない。長禄2年(1458年)島津の族将「新納忠続」を志布志城から飫肥に移し、伊東方の押へにしているのでそれ以前の築城と考えられる。文明16年(1484年)伊東祐国(6代佐土原城主)が飫肥城攻防初戦をはじめてから、天正15年(1587年)伊東祐兵(19代飫肥藩初代)が豊臣秀吉の九州征討の功により朱印によって飫肥城に入城するまで約100年の我が国に於ける最長攻防戦が行われたのである。以来、約300年伊東藩の居城であった。

振徳堂

振徳堂は飲肥藩の藩校として、第13代藩主伊東祐相が天保2年(1831)に建てた。
八幡通り側には高さ3メートルを越える切り石の石垣が積まれ、南に面した人口には長屋門を構えている。敷地内には主屋の他に武芸所、寮なぜの施設を構えていた。
振徳堂の教授には安井滄洲、教導として安井息軒や高山信濃、落合敬助(雙石)等が任じられた。
この藩校からは、小倉処平や小村寿太郎などを輩出している。
振徳堂の建物は、西南戦争では飫肥隊の兵站部となり、以後尋常高等小学枚、青年学校を経て、戦後は飫肥保育所をして使用されていた。
昭和51年(1976)に飫肥城復元事業の第1号として市民の募金により修理復元した。  (日南市観光協会案内板より)

武家屋敷通り

明治維新の廃藩置県に伴い藩士は俸禄を失い、屋敷を離れた者も多かった。
ここの馬場通りは、飫肥藩主屋敷の典型的な姿を色濃く留めている。
それは、傾斜地のため屋敷囲いに石垣をめぐらしているので原型は余り崩れていない。また、屋敷規模も広く1戸平均900坪で広い。
昭和52年5月、「重要伝統的建築物群保存地域」として国の指定を受けた。  (日南市観光協会案内板より)


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