この墓は、第8代島津久豊のもので、安政4年(1857年)に島津氏によって創建されたものといわれている。
久豊は、応永10年(1403年)に穆佐城に入り、伊東氏の加江田城を攻め、池尻城、白糸城、細江城を築いた。同年、伊東祐安の娘、寿山夫人との間に後の第9代島津忠国が誕生している。応永18年(1411年)、久豊は鹿児島に帰り島津家の家督を継いたが、再び日向入りし、応永32年(1425年)、穆佐城にて51歳で逝去している。
「義天在忠大禅定門」(ぎてんぞんちゅうだいぜんじょうもん)と刻まれた宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建てられている場所拝所で、その奥に「瘞骨塔」(えいこつとう)と刻まれた石碑がある。遺骨は昭和になり島津氏のよって発掘され、鹿児島に埋められている。(看板より)