安井息軒旧宅( 国指定史跡 )
この地は幕末の儒学者安井息軒の旧宅である。息軒は寛政11年(1799)ここで生まれた。諱(いみな)は衝(こう)、字(あざな)は仲平(ちゅうへい)といい、息軒はその号で別に半九陳人(はんきゅうちんじん)などとも称した。
学問所で子弟の教育にあたっていた父滄洲(そうしゅう)の影響か息軒も幼少のころから学問を好み、貧しく背が低く痘痕面の容貎に嘲笑を受けながらも勉学に勤しんだ。22才で大阪の篠崎小竹に師事、26才で江戸に出て昌平黌に学ぶなど苦学を重ね、次第に頭角をあらわした。
29才で帰郷した息軒は」森鴎外著『安井夫人』に紹介されるように美しく聡明な川添佐代と結婚、また滄洲と共に本史跡の向かいにあった郷校明教堂創建に携わり、その助教授となって子弟の教育にあたった。天保2年(1831)、明教堂創建の実績が評価され、藩校振徳堂が再興されると総裁に滄洲が、助教授に息軒が任命され、この旧家のを隣人に譲渡し飫肥城下(現日南市餃肥)に転居する事となる。
天保7年(1836)、息軒は妻子と共に江戸に移住して三計塾を開き、永年に渡り書生を教授し、谷干城、陸奥宗光ら幾多の逸材をその門下より輩出、後年は幕府儒官として昌平黌教授、奥洲塙代官を歴任し、明治新政府の下では明治天皇侍講の依頼を高齢等を理由に辞退したこともあった。この間「左伝輯釈」「海防私議」等多くの書を著している。
明治9年9月23日、77才で東京に没し、遺骸は家族や門人たちの手で東京都文京区千駄木の養源寺に葬られた。現在その墓は東京都の史跡に指定されている。(案内板より)