幕末(文化文政)の頃、島津藩の財政は非常に困窮していた。時の家老、調所笑衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)は指宿の豪商、浜崎太平次と計り財政再建策として、この地に寒天製造工場を設けた。最盛期は、3世太平次が支配人に任ぜられた安政元年(1854年)から明治4年(1871年)ごろまであったと思われる。
この工場には、現在、9基(窯径:130cm、高さ:180cm)の窯跡跡を見ることができ、当時の従業員数は、約120~130名ほどであったといわれている。
所在地:都城市山之口町山之口1640番地